皮千得 「因縁」
もう20年近く前のこと。
バックパック旅行が流行りだした頃、誰もが沢木耕太郎の「深夜特急」を読んでは出かけていくそんな頃。私もおんなじようにタイのカオサンストリートにあるゲストハウスで、ベトナム観光ビザが出るのを待っていた、1週間も。ゲストハウスの1階でよくわかりもしない韓国版『地球の歩き方』を眺めていると、なんとも雰囲気のいいタイプな男性が大きな荷物を持っておりてきた。30代前半くらいだろうか、日本人ではないと思った。ハローと声をかけた。彼は3ヶ月間の旅行を終え、今日帰るという。小さいけれどもある劇団で俳優をやっているのだそうだ。ほんの短い間ではあったがお互いたどたしい英語で話をし、10月にソウルと釜山に行くつもりだというと驚いて、
「私は釜山に住んでます。じゃあ、宿の心配はしなくていいです。ここに連絡を。」といきなりメモをくれた。ハングルだった。
「チェ・・チェ キョンデ、さん」
「ハングルを読めるのが嬉しいよ。韓国は寒いので着いたらすぐに上着を買うようにね。」と風のように去っていった。
その後ベトナム、ラオス、そしてタイからソウルへ。ソウルで数日過ごした後、国際映画祭のため私は釜山へ行くことにした。セマウル号にのって釜山へ。着くなりすぐに駅の公衆電話を探し、タイで会ったキョンデさんの連絡先の書いてある黄色い紙切れを取り出した。電話をしたが誰も出なかった。いないかあ。その紙切れを電話機の上に置いてそのまま出てきてしまった。10分後、紙切れがないのに気がついて元の場所に戻ったが、すでに風で飛ばされたのか何もなかった。釜山には知り合いはいないし、来るのも初めてである。今まで誰かの下宿や家に泊まってきたので、自分で宿を探したことはない。いつも必ず誰かが助けてくれていた。甘えていた。このとき初めて韓国が私にとって外国となった。
地下鉄に乗って釜山の一番の繁華街、南浦洞に向かった。チャガルチ市場を何となく歩いて、ソウルとは違う雰囲気を海の風とともに感じた。気がつくともう真っ暗だった。裸電球一つの屋台で、なにかよくわからないまま注文したソンジクッが夜ごはんであった。ソンジは牛の血を固めて作ったもので、かなり独特な食べ物である。私の言ってることが全く通じていないようで、おばちゃんは何を言ってもケンチャナ、ケンチャナとしか言わない。キムチをくれたのだが、これがまた生ごみの味で(といっても食べたことないが生ゴミの味といったらその味なのだ)あまりに臭くて吐き出してしまった。目の前の器にはグロテスクなソンジ。口の中は生ゴミ味のキムチ。こんなまずいご飯をたべながら、まだ宿も決まっていないのに・・
南浦洞の路地裏にたくさんの温泉マークが見えたので、坂を上っていって旅館を見つけた。
暗い受付の窓をコンコンとたたいた。
「あの、一人なんですけど。」
その時外でおしゃべりしていたアジュンマ3人がケンチャナ、ケンチャナといいながら部屋へと引っ張っていった。オンドルの効いた床の上に大きなベッドが置かれている。もちろん浴室の石鹸にはお約束通りというべきか、髪の毛がぺったりとついていた。いつのものかわからない化粧水と乳液がドレッサーの前に置かれている。
私はテレビの音量を大きくした。
それから二、三年後。映画祭のために再び釜山にやってきた。その頃になると韓国語はカタコト話せるようになっていた。好きなアーティストの同好会仲間と現地集合をして、映画を観た後南浦洞のカラオケ屋に行って騒ぐこともできるようになっていた。私を含め三人で夜中の二時すぎまで歌い、酔っ払いながら南浦洞の通りを歩いていた。三人で日本の歌を歌いながら歩いていると、男性が1人こちらに注意を向けているような様子が見えた。そして私の前まで歩いてきて立ち止まると、
「りうめいさん?タイのバンコクで会ったチェ・キョンデです、覚えてますか?」
私はその場にへたりと座り込んでしまった。
バンコクで10分も話していないというのに、お互いよく覚えていたものだ。これで恋なんかが始まればいいものの、残念ながらそういう流れにはならなかった。メモをなくしたことを話すと、また電話番号を走り書きして渡してくれた。今度はなくさないようにねと一言付け加えて。翌日、午前中に連絡をして昼下がりにカフェで会うことになった。キョンデさんは実家暮らしで舞台美術の仕事をしていること、マレー半島縦断旅のことなどを話してくれた。その時、キョンデさんがプレゼントしてくれたのが皮千得 (ピ・チョンドゥク)の「因縁」だった。エッセイにアサコという日本女性が出てくるのを思い出してと、イ・ウンミのCDも添えて。しつこいようだが、これで恋愛が始まるということはなかった。今思えば非常に残念だ。これは運命に違いない!と盛り上がればよかったな。とても素敵なお兄さんだった。その時もらったクリーム色の薄い本、よく読まない、いや読めないままいつのまにか本棚から消えてしまった。
久しぶりに読んでみようかな。
キョンデさんは50歳を過ぎているのか、こちらは40歳をとうに過ぎました。
ソウルの空気の悪い空の下であなたのことを書いています。
※昔書いたのを編集、加筆。
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2024.06.24 04:41